迪夫さんとの出会いは昭和27年4月、岡山操山高校に入学したときに始まり、奇しくも3年間同じクラスで学業に励みました。共によき友人であり、お互いにお宅を訪問しあい、私の趣味の技で迪夫さん用のラジオを組み立てたこともあります。帰省の際、列車から旭川の岸につい目がいきます。
大学は同じ岡山大学でしたが、迪夫さんは医学部へ、私は理学部へ進みました。社会人となってからは私が日立へ赴任したことで、それからしばらくはお会いする機会もありませんでしたが、時折の交信で心と、消息は通わせていました。
私の定年後平成10年10月、40年ぶりの再会を、当時の常盤のお宅と医院で果たすことができました。近時、ご本人はお忘れのようでしたが、ご生前の奥様、ご子息にもお目に掛っており、連絡の古文書(?)もあるので確かです。
平成27年、迪夫さんが脳梗塞で倒れられた旨、お嬢様からご連絡を頂き驚きましたが、驚異の回復をされ、院長に復帰された由承り、安堵したことでした。その後、医院を後継の方にお譲りになったことを知り、悠々の生活を得られたものと拝察していました。
以前お贈り頂いた「遠ざかる日々」、以後HPを通じての「院長のぼやき」、「続・遠ざかる日々」、「耄碌以前」はまさに私の愛読書で、HPの更新はリハビリのバロメーターとも見ていました。本年もご自作の賀状を頂き、明晰な署名も添えられていて、嬉しく思っていたところでした。
突然の訃報で、次作を望むべくもなく、人の世の常とは申せ、自身強い喪失感があり、述べる言葉も見当たりません。賀状の一節、「賀状もこれで終わりにしようか・・・・」が現実になってしまいました。ただただ、安らかにお眠りください。
紫陽花に 君が面影 遠ざかる (龍) 合掌