訪問くださってありがとうございます。“院長のぼやき”や“耄碌以前”と題して、気が向くと随筆散文を書いていた迪夫さんはこの世を去りました。
管理人はこの軌跡は残しつつ、ごくたまにこちらへ駄文を更新します。
「弟(迪夫)が逝ってから、体調が悪くて元気が出ないし、食欲もない」と、電話でぼやいていた伯父さん。
伊丹の自宅をたまに訪ねては、「まあ、そうおっしゃらず。宝来屋のお姉さんたちお手製のお赤飯やお餅がありますから、いっしょにいただきましょう。」とすすめたら、「おいしいなあ、おいしいなあ」と、たくさん食べてくれた伯父さん。
伯母さんのお仏前にすわって、一緒にお経をよんで、帰り際には、「ありがとう。元気がでたよ」と言ってくれた伯父さん。
独り暮らしをやめて神戸の老人ホームへ移ったのことを昨年知って、会いに行きますからねと電話したら、「無理せんでええ。こっちは伯父らしいことはなんもしてないのに。」
と言うので、そんなことないのですよと説明したら、
「そうか、ほんなら来てください。」
ちょうど去年の今頃のことです。
会えば伯父さんはほんとうに楽しそうによくしゃべり、あっというまに2時間が経っていました。
神戸に寄る前に行った岡山高梁での、お墓掃除の報告をしたところ、伯父さんが、演歌の「裏町人生」を知らんかというので、YouTubeで検索して、一緒に歌いました。
なぜ、「裏町人生」?
それは幼少期を過ごした高梁での思い出だったのですね。
伯父さんは、小学校へあがるまでは、高梁の商店街にあったお祖母さん(私にとっては曾祖母)の家で育てられていました。
隣の床屋さんには、当時普通の家にはなかった蓄音機があって、お客がくると、店主がレコードをかける。それで、お隣で音楽が鳴りだすと、喜んでとんでいって聴き入っていたといいます。
そんな昭和11年〜12年ごろに一世を風靡した流行歌、幼児だった伯父さんは床屋の蓄音機で何度も聴いて覚えてしまったのでしたね。
サラリーマン時代、お酒が飲めない伯父さんは、代わりに余興で「裏町人生」を歌ったとのこと。
サラリーマン時代の伯父さんといえば、思い出すけど、そのころの正月休み、岡山の祖母の家でこたつにあたりながら、伯父さんは台湾語や中国語のテキストを一生懸命に音読していて、それを脇にすわってながめていた私、子供ながら興味津々でした。
伯父さんは言いました。
自分が後悔しているのは、働いていたころは出張も多く、仕事に精根使っていたせいで、娘たちを遊びに連れていってやることもできなかったこと。さびしい思いをさせたと思うこと。
(でも伯父さん。昭和のおとうさんは、ほとんどみんな、そんなものですよ。伯父さんが家族をものすごく大切にしていたのは、私はよく知ってます。
うちの父なんか、ご存知のとおり、とにかく自分第一でしたからね〜。)
神戸のホームの自室で、伯父さんは私にこんなことを言ってました。
「こどものころは、なんでも親が、ああせい、こうせい、と手取り足取り、教えてくれて、こっちはそのとおりしたら、それでよかった。
ところが今は、誰も、教えてくれる人がおらんのじゃ。
どうやったら、うまくあっち(上)へ行けるのか。
ホームへ来て暮らしてみると、もう前には戻れんのがわかった。
この先は、このまま、あとは上へいくしかないいう道が、もう決まっとんじゃなあ。
伊丹の家にいたときは、そんなこと、考えることもなかった。」
「ごはんの時間、目の前に座ったおばあさんが、ニコリともせんのじゃ。もう少し愛想よくしてもええと思う。」
私はそんな伯父さんとおしゃべりするのが大好き。
* * *
昨日、従姉のいくちゃんから電話があって、「あのな、お父さんが亡くなってんやんか」
「えっ」驚いて言葉が継げずにいました。
前日の朝、いつものようにごはんを食べ、朝8時にはまだホームの人と会話もしていたといいます。
その2時間後から急に昏睡状態になり、家族が呼ばれ、見守られるなか、午後3時に呼吸が止まったと。ほんとうに驚きました。
いつでもしっかりと準備して、何事もきっちりしていた伯父さん。
悲報なのは確かであるけれど、そんな幸せな死に方ってあるでしょうか。
今日はお通夜、明日はお葬式です。
時節柄、その場へお伺いすることができませんけれど、お花を贈って心から手を合わせてお見送りします。
伯父さん、あの世へ行くとは言わずに、「上へ行く」と言っていましたね。
上へ行ったら、迪夫さんも、そこにいるでしょうね。おばあちゃんもそこにいるでしょうね。
心配いらんよ、タカチャン、あんばいええようにこっちへ来れたじゃろ〜?
おばあちゃんは、そう言って、伯父さんの生き方をうんとほめてくれると思います。
(2020.09.03)
■追記 :
夕べ、寝室で。横になって寝ようとしていると、頬から首にかけて、さわさわと微風が当たるのを感じていました。
暗いし眠いので、身体を起こさず、夫がエアコンをかけたかなと、かけ布団を顎までひっぱり上げ、そのまま寝入ってしまいました。
翌朝夫に確認すると、エアコンはつけていないよとの答え。
あ、やはりそうですね。
お葬式を終えて、ちょっと時間ができたからと、立ち寄ってくれたのですね、伯父ちゃん。
締め切った部屋にひとりで座っていて、ふと空気が動き、わずかな風が首にあたりに吹いてくる。
ああ、いまここに来ているなあと感じる。
母のときも、父のときも、同じことを何度も経験しているから、判ります。
ただ、みんな、こんなに早く来ることはなかったよ。
母も、父も、夢に出てきてくれたのさえ、亡くなってからずいぶん経ってからだった。
伯父さんがこんなに早く飛んできてくれるのは、
私が鎌倉にいて、神戸でのお葬式に出ていないせいかしら。
私も飛べたらいいのにな。
(2020.09.06)
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。五感のうちで、人生最期のときまで健全に機能する感覚は、聴覚ですね。
脳血流さえ保たれていれば、随意的(自分の意思による)運動機能を用いることなく、機械的に、容易に完遂される感覚機能であります。
意識レベルが低下していても、耳は聞こえる。ありったけの感謝の言葉を手向けて、送り出してあげたい。
■管理人(2020.01.22)写真は菩提寺の猫さんです。境内のパトロールのほか、社務所の受付、お線香売り場の店番にも大活躍していましたが、天寿を全うし、今は代替わり。
先日、鎌倉フルートアンサンブル主催の水無月コンサートへおじゃましました。
バッハのアリアを聴きながら、迪夫さんの気配をそこかしこに感じておりました。ありし日を偲んで、写真を掲載します。
上は迪夫さん70歳くらいの頃です。書斎でバスフルートを練習中。
診察室でカルテを書いているところです。
先日部屋を整理していたら、何かの本に挟まっていたこの写真が、なぜか目の前にパラリと落ちてきました。1997年とあるので、60歳の頃ですね。
クルマはダットサン・ブルーバードでしょうか、母に買ってもらったと、むかしそのように聞いた覚えがあります。1960年ごろ。
■管理人(2019.06.25)富士山を望む海辺のお寺にて、一周忌法要を滞りなく相営みましたことを、謹んでご報告させていただきます。どうぞこれからも見守っていてください。
■管理人(2018.06.20)
鎌倉市医師会さんよりご連絡あり、会報雑誌「神庫」(かみくら)に載せる追悼文を書いてほしいとのこと。
先生をよく知る方が医師会にいらっしゃらなかったので、家族に執筆をお願いするということでした。
市内の病院待合室などで、目に留めて下さった方もいるかもしれません。拙文を紹介します。
■管理人(2018.04.08)2017年6月29日、田中迪夫は安らかに旅立ちました。「旧院長のぼやき」および「耄碌以前」は、しばらく残しておきたく存じます。
みなさまより、お心のこもったお便りをいただきまして、感謝しております。
ご一緒に共有させていただき故人を偲びたく思いまして、追悼ページを追加いたしました。よろしければ、どうぞご一読ください。
■管理人(2017.07.20)