70年このかた殆ど毎日読み続けて飽きなかった新聞が、このところ少しも面白くない。
毎日開いて題字を眺めてはいるし、僅かに気持の動きかける記事も無くはないから読みかけるが、半ばで興が薄れて大抵終わりまで読み続けられない。
昨日は、月一回朝刊に挟まって来るカレンダーの日付が、4月となっているのが目に留まって動揺した。え、もう4月、そういえばあちこちで桜は満開だし、賑やかにセンバツも始まっている。いわれてみれば鎌倉は花冷えの春である。

段葛
昨年秋頃から、つれあいのガンが膏肓に入るとともに、自分もまた暗い穴倉に籠るような気持で過ごして来た。
2月に静岡がんセンターを退院して来たつれあいの病勢は、退院直後が最悪だった。
最後の手術の結果として、つれあいの口は勿論眼、鼻、咽喉など頸から上の諸機能は、聴覚を除いてすべて半、全壊しており、連日連夜3種の鎮痛剤を流し込んでも取れない執拗な顔面患部の痛み、第五頸椎への転移が原因と思われる項頸部の痛み、加えて左腕の位置が惹き起こす、肩から上肢に至る筋肉痛様の激痛(なぜか左の鎖骨が、右に比べて跳ね上がり、僧帽筋の萎縮が甚だしいことと関係があるはず)などに、苛まれ続けて来た。
入院中から貰っている3種の鎮痛剤が、効いているとは見えない上に、“呑む”こと自体に難渋しているのだからと、内服薬を全廃して塩酸モルヒネ坐剤に一本化、さらに増量して朝夕20mg 2回としたところ、これが功を奏した。
ある姿勢が惹き起こす左肩甲帯の筋肉痛様の痛みを除いて、術創近辺の(口、鼻、咽喉、頬などのアタマの下半分に溢れたガン)の痛みは、これでかなり楽になった。
もうひとつ、2012年秋に頭頸部扁平上皮癌に適応が拡大されたばかりの分子標的治療薬・セキツシマブを、2月26日から週一回点滴し始めたところ、膨れ上がる一方だった鼻から頬にかけての隆起がその勢いを止め、鼻出血も、また咽頭に流下して粘りつく、見えないけれど癌かららしい出血が、少しではあるが減って来た。
洗う水の赤色調が、桃色に薄くなり混じった暗紅色の凝血塊も小さい感じがする。ガンの進行がちょっと停滞した様な手応えが確かにある。
昨年、曲がりなりにも、自分で旅行鞄を引きずりながら、歩いて入院したつれあいが、失敗としか云えない手術の後、這うようにして退院して来て、自宅で紛れもないガン末期患者と化した時、それを迎えた私は、腑抜けの木偶の坊でしかなかった。
50年を共に暮らしたつれあいが不意に、眼の前で苦痛に喘ぎ、瀕死の状態に陥った。
しかも、長い年月暮らしを共にして来た、まさにそのことで、ことここに至った責任の半分は私にもあるのではないかという疑問も無いではない。
いかにも不条理であるが、この不条理の衝撃は大きく、若い時に読んで他人事なのに受けた衝撃の大きさから忘れかねていて、心のどこかに仕舞ってあった詩を思い出している。
けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふってくる
・・・・で始まる宮沢賢治の「永訣の朝」である。
しかし、3月末からは痛みがコントロール出来るようになったし、鼻や口の中、顔の奥で炸裂しつつあるガンの勢いも、ほんの少しではあるが落ちているし、うまくいけば持久戦に持ち込める可能性が出てきた。
「けふのうちにとほくへいってしまう」惧れは遠のいた。
今、彼女の癌を治すことは出来なくても、せめて共存が出来たらと切に願っている。
最悪の時期を切り抜けられたのは、情緒、感情に流れて腑抜け同然の私を、沈着冷静に支えてくれた子供たちだった。
特に経済的にも精神的にも実務の上でも、娘と婿の献身的な支援が無ければ、これほど短期間に介護態勢を組み立てることは出来なかった。
つれあいも私も伴倒れになり、立ち直れなかっただろうと思う。
大書して感謝したい。
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