8月6日、広島原爆忌。
学生の頃、分裂する前の原水禁世界大会に参加したことはあるが、年々関心が薄れて近年ではテレビで原爆ドームと灯籠流しの映像を見て、あ・今年もと思うだけで終わっていた。
被爆者の方には申し訳ないけれど、60年も経つと毎年の回顧番組にも新しい視点はない・・様な気がして、ただ眺めて来た。
ところが66年め、今夏のNHKスペシャルは違っていた。自宅に居たら多分視なかったであろう特集番組を、丁度医師会夜間診療所の当番に当たって出勤していたので、診察室で欠伸混じりに見始めたのが、元軍人の証言に思わず居ずまいを正した。
初耳の新事実だったし、それを語るご老人達(ドウカ失礼ヲオ許シアランコトヲ)のお顔がとても良かった。メデイアで終戦秘話の類が放映される様になって多分50年以上になるだろうが、今まで誰も知らなかった66年前の事実が、その当事者によって語られるということに、心底感動した。
日本陸軍の防空監視哨は内容の暗号解読は出来ないままではあるが、交錯する電波から米空軍の異常な動きを掴んでおり、広島では無理だったとしても、9日小倉を経て長崎に廻った原爆搭載のB29を撃墜する機会は十分にあったという。
88歳、90歳の現存する旧軍人が、それを体験者として証言した。
NHKは数少なくなった関係者をよくぞ捜し出し、無二の貴重な発言を記録してくれたと思う。
日本の都市を無差別に爆撃していたサイパン、グアムのB29はそれぞれ共通の番号を持つ大編成の群れで、互いに呼び出し合う番号から編成機数からその日の動向まで判っていたが、それと別に昭和20年初夏からテニアン島を基地にするB29の小集団が現れた。
この僅か十数機のB29が原爆投下の特殊訓練を繰り返していた部隊であったことを、広島攻撃を実行したエノーラ・ゲイの乗務員で、唯一人の現存兵士が証言している。
この600番台の番号を持つB29のうちの一機が広島に新型爆弾を投下したこと、またその三日後にテニアンから発進した同グループの一機が、9日の朝、豊後水道から北九州に侵入し小倉上空から反転して南下しつつあることを、市ヶ谷の(?)探知班は朝から知っていた。
電波を傍受した陸軍将校は既に亡くなっているが、テニアン発のこのB29が二発めの原爆を搭載していると推量していたことを、情報を大本営に届けた部下の一人は現存して証言している。
長崎に原爆が投下される午前十一時より5時間も前のことである。
しかし、迎撃命令は遂に出されることは無かった。長崎・大村基地には九州防衛を任務とする戦闘機部隊が温存されていたにもかかわらず・・。
この時刻、大本営では戦争の帰趨を決める御前会議の最中だった。
記録に依れば「原子爆弾の威力は凄まじいというが、いくら米英でもそんなに何発もは作れないだろう」というのがその席の陸軍参謀総長の発言だったという。
大村基地で終戦を迎えた88歳の元戦闘機乘りの老兵士は、初めてそれを聞かされて「紫電改は1万米の高空を飛ぶB29を落とすことが出来る戦闘機だったのに」と悔し涙を浮かべた。
この人の操縦する飛行機はたまたま6日に兵庫から九州に飛んでいて投下直後の広島上空で原爆の爆風に煽られて一時操縦不能に陥り、辛うじて立ち直って見下ろした広島の市街地には先刻まであった何もかも一切が無くなっていたという経験もしたそうだ。
広島長崎の原爆禍については、その後の66年間に編まれた多くのドキュメントで、大抵のことはよく判っていると思っていたけれど、知らないことはまだ沢山ある。
原子雲の吹き上がる広島上空に日本の戦闘機が飛んでいたこともそうだし、エノーラ・ゲイの電波をテニアンから追跡する技術を日本陸軍が持っていたことなども私は初めて知った。
そしてまたこの迎撃部隊の老戦士が、自分たちの頭上を南下して長崎の同胞を殺戮した原爆搭載機を、未然に撃墜する機会のあったことを初めて知って、軍の上層部は何故迎撃命令を出さなかったのかと口唇を咬むのを見て、上層部が自らの無知と「無為に責任」の曖昧さに隠れて、都合の悪い情報を無かったことにする悪弊がここにもあったのだと思った。
夜間診療所診察室のテレビは「地デジ化」に対応してないとかで、デジの映像を鎌倉ケーブルテレビでアナログに変換したのを映しているのでザラザラの荒れた画面だったのが残念。
素晴らしいドキュメントを綺麗な画面で見たかったけれど、見ている時はそんなことは忘れていた。この間、受診者ゼロ。
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