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(かまくら便り「耄碌以前」)
(旧)

 
狭心症始末 (1)

 
 なんとかの不養生
2010.8.5
 今年の6月、自分の余命に決定的な事変があった。

日頃、冠動脈硬化から来る狭心症の症状は、典型的な左胸の痛みばかりでなく、肩や左腕の痛み、時には胃痛と間違えるような上腹部の痛みであったりするから、見落とさないようにと気にかけている。

 しかも、本当に血行の途絶する心筋梗塞が発症すれば、その時は単純な痛みではなくて、「ただごとではない」という、いわば絶望感を伴った特別な痛みを生ずるものらしいという思い込みもあって、心筋の血流不足、酸素不足が起これば大なり小なり<痛み>があるものと思って来た。

 しかし緩慢に起こった狭窄は必ずしも痛みを起こすものではないらしい。

 自分の場合がそうであった。

歩く

 近年私は歩くのが下手になり、急ぎ足で歩き始めると胸苦しく、すぐに休みたくなり、そのくせ少々休んでも全身の疲労感が取れなくなっていた。

 トシをとるとはこういうことかと思い、もっと歩かなくては足腰が弱る一方だと自分を鼓舞して外に出て、今までの半分以下の速度でゆっくりと歩き始めるとなんとか30分の散歩を完遂出来ることもあって、だから私は自分の近来の不調は高血圧から来たものとばかり考え、自分の冠動脈の90%以上が狭窄しているとは考えもしなかった。

 
 しかし思い返せば冠動脈の異変はもっと早い時期に起きていたようだ。

 15年ほど前、産業医の資格を取るために1週間ばかり北九州の産業医科大学で集中講習を受けたことがある。
 この時、心電計やら血圧計を装着して自転車を漕いで心肺機能を調べる実習で、始めて数分経たぬうちに私ひとりストップがかかった。血圧が220を越したばかりか心電図に極端な異常波が現れてモニターを視ていた教官が泡を食って止めたらしい。

 この時、私には自覚症状は全く無くて、心肺に負荷を掛けた時に起きる異変の、サンプル扱いにされたのがいささか不満であっただけで、冠不全についてはその後何らの術も講じなかった。全く愚かなことであった。

 自分の冠動脈の老化はほとんど意識しなかったが、そこは商売で、患者の訴える異変には割に敏感で、一年に何人かは湘南鎌倉総合病院の齋藤 滋先生のところへ早めに患者を送ってはいたのがせめてものことではある。

 自分が亡父に似て、高血圧を発症していることはこの時初めて知って、このドクターストップ事件以後クスリは呑み始めたが、もし気付くのがもっと遅かったらとっくに脳卒中を起こしていたに違いない。

 熱海遭難事件の再来

 オルフの「カルミナ・ブラーナ」は昔から好きでCD以前のまだLPの時代からよく聴いたけれど、生の演奏は一度も聞いたことがなかった。それが神奈川フイルが35周年記念に県民ホールで演奏するというのでこりゃ面白いと横浜に出かけた。

 6月6日のことだった。

 「日本大通り」駅の改札口を抜けて地上に出るまで、ついうっかり若い人達と同じ歩調で歩き始めたのがいけなかった。階段の途中で胸は大きな石を抱かされたように苦しく、両脚は粘土の中に踏み込んだ様に重くなって引きずるのがやっとで、しかも立ち止まっても少しも楽にならない。

 地上に出てからもホールまでの道が無暗に遠くて、横断歩道の青信号の時間も不当に短くて、それでも脂汗を流しながら、もがき進むしかない。

 ホール正面の階段の下で、これを登ったら倒れるかもしれないと思ったが半年も前からの予約(と福沢諭吉!)をフイにするのは如何にも残念で、這うようにしてなんとかニジリ上がった。この機会を逃したら「カルミナ・ブラーナ」の生演奏はこれから先死ぬまでに、二度と聴くチャンスは無いだろうと思う執念がそうさせたといえば格好がいいが、そうではなくて人前で路上に無様に座り込みたくなかっただけのことである。

 決死の覚悟で臨んだ演奏は期待以上に素晴らしかったし、驀進する蒸気機関車のような大合唱にも感動したけれど、これは別の話。

 関内駅までの帰途は、最後のホームへの登り階段を意識して、初めからそろりそろりと40分かけて歩いた。

 暮れなずむビルの谷間から仰ぐ西の空に壮麗な夕焼け雲が流れていたが、それを嘆賞する余裕はまったくなかった。 翌日、ともかく、湘南鎌倉総合病院の齋藤先生受診の予約を取った。

. 造影 
 9時の予約が11時になったが、齋藤先生は私の訴えを聴き、予診の負荷心電図を観て即日、冠動脈造影をやりましょうといってくれた。

 ST低下の歴然とした酷い心電図で覚悟はしていたものの、初診直後にもう造影というのは想定外だったが、その親切はほんとに嬉しかった。

 先生もスタッフもこんなことは日常茶飯のことと見えて、ぱたぱたと入院が決まり、16時にはもう点滴棒を旗竿の様に立てて、車椅子に乗せられて処置室に運ばれていた。

 造影もあっという間に終わる。

 入室後40分でもう病室に帰っていた。右手首の局所麻酔の注射が一寸痛かったのと、最初カテーテルが肘のあたりを上行する感じがあったのと造影剤を注入される時、胴から下に少し灼熱感があった以外は何も感じ取れない。

 先生の指示に応えるスタッフの声から、かなり大勢の人に囲まれているのはわかるが、目を開けても天井しか見えない。操作をしている先生や皆が視ている筈のモニターも全く見えないので進行状況はわからないけれど、一か所通過し難い所があってやや渋滞し、先生がカテーテルを細いのと(?)交換したらしいのは判った。ともかく手練の技、その手早いこと。

 17時半、夕方の申し送りで混雑しているナースステーシヨンに呼ばれて造影結果の説明を受ける。動き回る人は少ないのに部屋全体が動いているような、この時間のナースステーションの気ぜわしい雰囲気が懐かしかった。

 齋藤先生は朝から午後遅くまで外来診療をこなし、あと造影だ何だで昼飯抜きの筈だけれど、そんなことは意に介する風もなく、悠然たるものである。

 確定診断

 写真と動画を観ながらの説明は恐るべきものだった。

 右冠状動脈が99%、左冠状動脈の前下行枝が99%、廻旋枝が77%の閉塞率とのこと、この数字、開通率ではなくて狭窄の割合だといわれるのには参った。つまり主要な3本の動脈が全滅の状態なのだそうだ。

 血行障害の範囲から云って、<ひとむかし前>ならバイパス手術が第一選択になる状態で、特に左冠状動脈が2本に分かれる直前の「主幹部」にも一部狭窄があり、これを拡張してステントをいれると、ここで分岐する前下行枝かあるいは後方への廻旋枝のどちらかが犠牲になる恐れのある場所で、手術以外は考えられなかったところだと、これは陪席した柳沼先生が別の日に教えてくれたことである。

 この時「大丈夫、齋藤先生だから何とかしてくれますよ」と若い柳沼先生が笑ってくれたのが随分救いになった。

 手術なら入院が4〜6週間を必要とするとの話なので、そうなるともはや田中医院を続けることは出来ない。今まで頭頂部の皮膚癌も、直腸癌も、水曜半日と木曜日一日を利用して何とかごまかしてきたけれど、いよいよここで閉院せざるを得ないことになるかと暗然としたが、齋藤先生はこちらの事情をよく御承知で、出来ることなら手術は避けたいという私の希望を容れて、ステントでやってみましょうといってくださった。

 それも通常2泊3日の入院治療を、毎回1泊2日で出来るように日程を作ってくださった。弱小医院の外来診療に極力穴を開けないで済むようにというこの齋藤先生の配慮のお陰で、院長の寿命と共に田中医院の寿命も延びた。まことに有難いことであった。

 入院当日。田中医院午前中の外来は27人、全て常連で様子の判っている人ばかりなので問題はなかったが、ただひとり、朝一番の電話で、逗子の甘木さんからご主人の往診依頼があったというのには困った。

 初診で顔も知らないが、何かあった時には往診すると私が奥さんには約束していたのを知っているので、看護師の高橋君も当惑したらしいが、事情を云ってなんとか断ったとのこと。

 後から聞けば御主人は結局救急車を呼んで入院になったという、それもまさに私が午後入院した同じ病院だったらしい。

 それと、これに先立って当日の早暁二時半、二十年来の馴染で近年は毎週往診していた九十一歳の何樫さんの奥さんから、様子が変だという自宅への電話で起こされた。これもかねてから死亡診断書を書く約束だったので、最後の深夜往診で死亡確認に走った。何樫さんの死に顔はまことに穏やかで仏様そのものであった。死亡診断書は午前の診療をしながら書いて間に合わせた。

 曲がりなりにも仕事を一応片付けて、握り飯を頬張りながらかみさんの車で運ばれて、約束の13時には入院できた。

 



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