昨日早暁にはBさんが亡くなって、先刻死亡診断書を書いて入院して来たばかりなのに、今朝またAさんが旅立つ、運なるかな命なるかな・・。
Aさん自身も家族の方もかねて覚悟の上のことだったから、主治医が臨終に間に合わなかったことは問題にもされないことは判っているが、連絡を受けておきながら半日以上も確認にも行かないといわけにはいかない。
死亡診断書が無ければ何事も始まらないのに、それを書けるのは主治医の私しかいない。誰か他の医者を頼んだとしても、その医者が書くことが出来るのは死体検案書であって、死亡診断書ではない。そんなことにはならないと思うけれど、杓子定規な扱いをされれば司法解剖だの何だのと面倒なことになりかねない。諸人の迷惑ここに極まれりである。
外出許可を貰って鎌倉山へタクシーを飛ばそうかと、病棟の廊下で強烈な朝陽を浴びながら考えた。しかし、そうしたところで書類を遺族に渡せるのは自分が退院しないと出来ないことだから、何が何でも午前中に退院させて貰って、遅ればせながらその足で、Aさんの旅立ちを確認に行くしか方策はないと腹を決めた。
死亡診断書を書きたいからと入院患者がナースセンターで用紙を希望したら、この病院の末代までもの語り草になるだろうなと、これは無論その時に考えたことではないが、阿呆な申し出をしないで良かったと今、思う。
死んでいるとは言わないで、舅の様子がいつもと違うと繰り返すお嫁さんに、正午には必ず行くからそのままで待ってくれと公衆電話を二度掛けて、繰り返し念を押した。
私がケータイを持って入院していれば、つれあいにも遺族にも無用の心労を強いることもなく自分も楽だったろうけれど、実はケータイは、「カルミナ・ブラーナ」を聴きに行った「日本大通り」駅で下車する時網棚に忘れて、この時まだ所在が判ってなかった。つまりこのゴタゴタも狭心症発作の合併症と見るべきでありました。
Bさんは深川の材木屋さんで生粋の江戸っ子だから話しっぷりが素敵で、岡山の田舎育ちの私は、こんなに鮮やかな東京弁を話す人に、噺し家以外には逢ったことが無い。Aさんは英文学者で、イギリスってどんなところですかという私の陳腐な質問に「そう、雲の美しい国だった」と遠くを見る目になった。御両人とも20年来の付き合いの中で、嫌な思いをしたことは一度もなかった。
相次ぐ御両人の旅立ちの丁度その合間に、素晴らしい技術で延命して貰った私にとって、ことがうまく運んでいるのは御両人が後押ししてくださっているということなのだろう。
本来なら2泊入院して経過観察して貰う筈なのを、齋藤先生に我儘を聞いて貰って一夜明けたら退院という段取りになっていたのも因縁だということにして、11時半予定通り退院、つれあいの車で若葉の綺麗な鎌倉山に急いだ。